昨晩の蓮との記憶が、数メートル歩くごとに蘇って来る。駅までの道すがら、前触れなく奇声を上げる咲は、周囲から危険人物に見えているだろう。「僕は男なんだぞ……」 深く考えれば考える程、蓮に弄ばれたような気がしてくる。 ゾンビよろしく前屈みに溜息を吐き出した所で、広井駅に着いた。日曜の駅は半端ないくらいに混みあっていて、夏の暑さに不快な空気がムンと漂っている。 そんな中、咲は改札に入る手前で絢に似た女性とすれ違った。 瞬間的に見えた顔は、きっと他人の空似だと思って声は掛けない。向こうも咲に気付いてはいなかった。大体、彼女がデートに行く様な清楚な格好でこんな所にいるわけはないのだ。 絢ならきっと、派手で際どい服を着ているだろうと勝手に想像して、咲はそのままホームへ向かった。 駅にはあんなに人が居たのに、町から離れる電車にはいつも通り数人しか乗客が居ない。 昔は咲も広井町に住んでいたが、たった五年ですっかり田舎暮らしが板について、人が居ないことにホッとしてしまう。 あんなことがあったせいで頭には蓮の事ばかり浮かんでくるが、とりあえずそれは脳みその端に追いやって、咲はこれからの事を考えてみた。 自分が選べる選択肢は、二つだと思う。このまま何も知らないふりをして、誰にも何も言わずに第一のハロンが現れる10月1日を迎えるか。それとも、湊や智に全てを話すか。 芙美にはまだ過去の記憶がない。彼女はこのままの状態で10月1日を超すのだろうか。「いや、それはないんだろうな」 どうせなら、最悪のシナリオを仮定しておいた方が良いと思う。 もし今芙美に記憶が戻ったら、彼女はどうしたいと言うだろう。死んでしまうアッシュの武器を引き継ぐ為にこの世界へ来たリーナは、あわよくば彼を助けたいと思っていたのかもしれない。 それはアリなのか、ナシなのか。 絢は「未来を変えてはいけない」と言った。未来を変えてしまったら、もっと悪いことが起きるかもしれないと言われても、想像力が足りなくて全滅のシナリオに辿り着くばかりだ。「それは困る……どうしたらいいんだよ」 咲が頭を抱えたところで、スマホにメールが入った。タイミングが良いのか悪いのか分からないが、知らない番号はすぐに蓮だと分かった。 咲は緊張を滲ませて、スマホを両手で握り締める。『番号ありがと。昨日はちゃんと寝れた?
不覚だ。 朝目が覚めた瞬間、咲は血の気が引く思いにぶっ倒れそうになった。昨夜はあれから暫く蓮の胸で泣いて、部屋に戻って眠りについたのだ。 その時までは後悔なんてしていなかったのに、朝になった途端正気に戻って、ジワジワと脳内再生される昨晩の記憶に叫びたくなる。「うわぁぁああん」 窓から差し込む朝日が、泣き疲れた目に染みた。「おはよう咲ちゃん。どうしたの急に。怖い夢でも見た?」 何も知らずに寝ていた芙美は、晴れた空を見上げて「良い天気だよ」と笑顔を広げる。「う、うん……」 ただ怖いだけの悪夢ならどれだけ救われただろう。時間を巻き戻す魔法があるなら、今すぐにでも絢の所へ飛んで行って土下座でも何でもするのに、そんなのはないと前々から何度も言われている。「顔洗ってくる」 とりあえず、この腫れぼったい目をどうにかしなければ、と咲は蓮の気配に警戒しつつ洗面台へ向かった。 ☆ 身支度を整えてリビングへ下りると、芙美が朝食の用意をしてくれていた。昨日残ったカレーの匂いが、階段の上にまで届いている。「おはよう、咲ちゃん」 背後から掛けられた声に、咲は慌てて肩をすくめた。蓮だ。 何事もなかったように妹の所へ行った彼に、「おはようございます」とぎこちなく返事する。「お兄ちゃん、これ運んで。咲ちゃんが作ってくれたカレーだよ」「やった。それは嬉しいね」 何気ない兄妹の会話の中で、咲は動揺を隠すのに必死だ。今日は何をしようかと芙美がさっき部屋で話をしていたが、本日の予定にはもれなく蓮がついてくる流れになっている気がする。 楽しそうな芙美には申し訳ないが、平常心を保てる気がしない――と不安を覚えたところで、咲のポケットでスマホが甲高い音を鳴らした。『咲ちゃん、おはよう(ハート)』 他愛のないメールの送り主は、姉の凜だ。それが咲には救いの女神に見えて、『おはよう』と返事する。 そして、二人に嘘をついた。「ごめん、芙美。アネキが用があるって言うからさ、朝ごはん食べたら帰るよ」「えっ、おうちで何かあったの?」 緊急性をアピールする咲に、芙美は本気で心配してくる。悪いなと思いながら、咲は嘘を貫いた。「そんな大したことはないと思うんだけど、来てほしいって言うからさ。れ、蓮さんもすみません。また今度……」「用事があるなら仕方ないよ。次、楽しみにしてる
声を殺して泣きじゃくる。こんな泣き方をしたのは初めてかもしれない。 涙はこの身体のせいだと思っていたけれど、よくよく考えたらヒルスの頃から人前で泣くことは良くあった気がする。ただこうして誰かに受け止められたのは初めてだった。 抱きしめる蓮の感触にホッとしている自分が嫌だ。けれどそこから離れる事が出来ず、泣き場を求めて甘えてしまう。 不覚だ。 涙がようやく涸れてきたところで、蓮が咲の顔を覗き込んだ。「落ち着いた? ここじゃなんだし、俺の部屋にでも行く?」「何でそうなるんだ。行かないよ、襲われるから」 蓮が張り切って自分の部屋を掃除していたと、芙美が言っていた。申し訳ないが、絶対に足を踏み入れることはできない。「ハッキリ言うね」「うちのアネキに、一人で男の部屋に入るのは同意するのと同じだって教育されてるからな」「お姉さんか。まぁそういう男もいるんだろうけど、流石に何もしないから。とりあえずそっち行こうよ」 二人はリビングへ移動した。 ☆ 雨と涙で濡れた服から素早く着替えてきた蓮が、ソファに座る咲に麦茶を差し出して横に腰を下ろす。 少し距離が近い気がしたけれど、咲はそのまま「ありがとう」とグラスを受け取った。 一口飲んで、咲は宙に視線を漂わせたまま口を開く。「このこと、芙美には黙ってて欲しい」「俺とこうしてること?」「いや、僕が泣いたこと」 蓮が短く溜息をつく。「何で芙美に強がるんだよ。まぁ俺も昔の彼女に二股掛けられた時は、アイツが寝てから部屋で泣いてたけどさ。泣きたい時は泣けばいいと思うよ。俺で良かったら、肩でも胸でも貸すから」 涙の理由は大分違うが、彼なりのやさしさを感じて「分かった」と答える。「咲ちゃんは、芙美が好きなの? 男……として?」 蓮は首を捻る。確かに男だと言えば、そう捕らえられてしまっても仕方がない。 男として芙美を愛するか――けれどそんなあわよくば的な感情は、この世界に来ると決めた瞬間に捨ててきた。「違う。そういうのじゃないんだ。僕は……」 この人なら、本当のことを言って受け止めてくれるだろうか――ふとそんなことを思ってしまう。 蓮に会うためにここへ来たのは、芙美の兄がどんな奴か確かめたかったからだ。対抗意識を燃やして、変な奴だったら説教してやろうかくらいの勢いだったのに、ただ肩を借りて泣い
芙美の寝息が聞こえて、そっと手を解いたところで階下から物音がした。何だと思ったけれど、恐らくバイトから戻った兄の蓮だと気付いて咲は息を潜める。 このまま寝てしまおうと目を閉じるが、大きめの足音に芙美が「うん……」と覚醒しそうになって、慌てて部屋の外へ出た。階段の下を横切る彼に「静かに」と声を掛けると、蓮は足を止めて咲を振り返る。 何も知らない蓮は、咲を見て「可愛い」と能天気な笑顔を見せた。ただ静かにして欲しいだけの事をうまく伝えることができず、咲は足音を忍ばせて階段を駆け下りる。そういえば今日は姉の凜がチョイスしたピンクのヒラヒラしたパジャマだったが、気にしている暇はない。「ただいま」「お帰りなさい……じゃなくて。芙美寝てるんで、起こしたくないんです」「あぁそうか。雨大丈夫だった?」 「ごめん」と蓮が声を潜める。傘を持って出た彼だが、腕やカバンが少し濡れていた。「芙美、今日はそんなに怖がらなかったから」「なら良かった。咲ちゃんのお陰だね、ありがとう」「いえ。じゃあ、そういうことで……」「ちょっと待って」 心がまだ落ち着いていなかった。早く部屋へ戻ろうと踵を返した所で、蓮が咲を呼び止める。「泣いてた? 咲ちゃん」「泣いてません」 彼に背を向けたまま、咲は横に首を振った。「そんなに目赤くして? 咲ちゃんも雨が苦手? それとも芙美と何かあった?」「芙美とは何もないです。雨も、苦手じゃありません」 階段を駆け上がればここから逃げ出せるのに、足が竦んで動いてくれない。涙の痕を腕でゴシゴシと拭って、咲は「平気です」と強がった。「大丈夫……」 けれどその声が震えて、咲は左手で口を塞ぐ。 智の死への不安、芙美が望む未来を叶えてあげることができないだろう不安、それは蓮には全く関係のない事だ。なのに抑えていた感情が零れ落ちる。「平気じゃないだろ? 芙美起こそうか?」「駄目だ。私が泣いてるってアイツに知られたくない。それにまだ雨が降ってるから……」 感情的になって振り向くと、蓮は咲を見て困った顔をする。「だったら、咲ちゃんの不安はどうするんだよ」「私なんて、放っときゃ落ち着く」「何かあるなら聞くけど?」「…………」 言えるわけない。智のことも、芙美のことも。「じゃあどうして、咲ちゃんは俺に会いたいって言ってくれたの?」「それ
お泊り会の夕飯にカレーを作った。咲が手土産で持参した牛肉の効果で、見た目も味も豪華だ。「すっごい、咲ちゃん。女子力高すぎる」「へへん、これくらいはな」 咲として料理をする事はあまりないが、ヒルスとして兵学校に居た頃の野営訓練が地味に役に立っている。ピーラーを使わずに皮むきをする咲に、芙美が目を輝かせた。 夕食後、芙美が「一緒にお風呂に入ろう」と提案したが、咲はそれを断った。女同士とは言え、もし後で智にバレるような事になれば、何を言われるか分かったものじゃないからだ。 風呂の後の支度を済ませて、芙美が客室に敷いてあった布団一式を両手に抱えて自分の部屋へと運び込む。どうやら先に蓮が準備してくれていたらしいが、芙美には不服だったようだ。「一緒に寝なきゃ、お泊り会の意味ないよね」「そうだな。ありがと」 芙美の着ている水色とオレンジのチェック柄のパジャマは、彼女のイメージに良く合っている。咲のは姉が準備したもので、無駄なヒラヒラが多いピンク色のパジャマだ。だから余計に、蓮が夜までいないと聞いてホッとしていた。 雨の気配がして、咲がカーテンを閉める。「あぁ」と隙間に見える闇を覗いた芙美の顔が、不安気に歪んだ。「芙美、下行ってテレビでも見ようか?」「ううん、今日は……」 芙美が言い掛けたところで、彼女のスマホがメールの着信音を鳴らす。「お兄ちゃんだ」 ベッドに腰掛けた芙美の横に座って、咲は向けられたモニターを覗いた。『雨、大丈夫か?』 心配する蓮に芙美は小さく微笑んで、『平気』と返す。「今日は咲ちゃんがいるから平気だよ」「なら良かった。アニキ、心配してくれるんだ」「雨の時だけは優しいかな。私が怖がるからね」 芙美は机の充電器にスマホを繋いで戻って来ると、「ねぇ」と咲を伺った。「咲ちゃん最近元気なかったけど、何かあった?」 自分では自覚していなかったが、智の死へ対する不安がここの所ずっと響いていたのは確かだ。「ごめん。心配かけてた? 大したことじゃあないんだけど」「そうなの? 恋の悩みとか、何でも私に相談してね」 芙美はバンと自信あり気に胸を叩く。どうやら思ってもいない方向に勘違いされているようだ。「はぁ?」「だって、お泊り会といえば恋バナじゃない?」「そ、そうなのか?」 リーナに夢中で、芙美に夢中で、自分の恋愛なん
広井町の駅に着いた咲を、改札の向こうで芙美が迎える。土曜の午後は驚く程人が多く、学校のある白樺台の駅とは大違いだ。「今日の咲ちゃん、すっごく可愛いね」 芙美が咲の服を見て、「わぁ」と声を上げる。少し大人びたワンピースは、姉の凜に無理矢理着せられたお下がりだ。友達の家に泊りに行くと言っただけなのに、パジャマまで姉好みの物を持たされてしまった。「アネキの趣味だからな」「咲ちゃん、お洒落なお姉さんがいるって言ってたもんね」 膝下まである、はき慣れないスカートが落ち着かない。脚を半分以上隠しているというのに、電車の中では知らない男子の視線をやたらと感じた。「いいなぁ、お姉ちゃん。私もお兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんが良かったな」「嫌なのか? お兄ちゃん……」 芙美の兄という存在は恨めしいが、『姉が良かった』発言は咲の心臓にグサリと刺さる。「別に嫌じゃないけど。お姉ちゃんだと楽しそうだなって。ほら、咲ちゃんの服とか選んだりしてくれるんでしょ? 私もこの間絢さんに服借りた時、こういうお姉さんが居たらなぁって思ったんだ」 確かに異世界に居る時、ルーシャとリーナは姉妹のように仲が良かった。「そうか」「お兄ちゃん今日は咲ちゃんが来るからって、朝から張り切って掃除してたよ。お兄ちゃんの部屋になんて入るわけないのにね」「確かに入る予定はないな」 個人的な部屋にまで上がり込むつもりはない。「けど、咲ちゃんがお泊り会楽しみにしてくれて良かったよ。ちょっと前はお兄ちゃんの話すると怒ってるみたいだったから。あんなお兄ちゃんだけど、意外と優しい時もあるんだよ」 芙美の兄評価はいつもあまり高くない。自分以外の兄への低評価は嬉しい筈なのに、何だか自分のことを言われているような気がして、咲は複雑な気分だった。「あんな、って。私は芙美のアニキがどんな人なのかなって思っただけだよ」 メラメラと燃える対抗意識が、知らぬ間に芙美に気を使わせてしまったようだ。 今日はただ『芙美のお兄ちゃん』が確認できればいいのだと咲は自分に言い聞かせる。間違っても飛び掛かったりはしないように。「まぁ、それはないか」 咲はこっそり呟いた。 ☆ 駅から少し離れたスーパーを経由して、二人は荒助(すさの)家へ向かった。比較的駅に近い場所で、咲が幼い頃に住んでいた地域とは大分離れている。